第17回 西洋菓子 〜

1877年(明治10年)11月1日読売新聞「洋人の良工を雇って作る西洋模製御菓子」の両國若松町のの広告
 明治政府は産業を興す政策の1つとして、1877年(明治10年)8月21日、第1回内国勧業博覧会を開きました。
 お菓子の部門ではコンペイトウ、カステラなどに混じってパン、菓子パン、ビスケットなども出品されました。
 この博覧会で南伝馬町、大住喜右衛門の
の「菓」と若松町、米津松造のの「乾蒸餅(ビスケット)」が褒賞を受けました。
 は日本の洋菓子の歴史を語る上で欠かせない存在です。
 両國若松町
の米津松造氏は、大住喜右衛門氏のの元番頭で、1872年(明治5年)、総本家より暖簾分けされました。総本家の大住喜右衛門氏は進取の気性に富んだ方で、松造氏を横浜に遣わして西洋菓子を見聞させたといいます。横浜での研究をもとに1974年(明治7年)には“宝露糖”と名づけたボンボン・ド・リコールド(リキュール・ボンボン)を新発売しました。
 博覧会での受賞を機に両
は洋菓子の製造販売に一層力をいれました。
 さらに両國若松町の

    『西洋模製 御菓子 数品
    祝日用プロンケーク(飾菓子)
    ビスコイト 1斤 金20銭
    御進物用・西洋形箱詰金55銭より調達仕り候』

の広告を出しました。“宗家 西洋御菓子”として西洋菓子を主力商品に育てようとする米津松造氏の気概が感じられます。
1989年GATEAUX 5月号掲載〈プロンケーキ〉[製作:門林泰夫氏]
自由が丘に伝わる門林彌太郎氏のレシピを元に再現したプロンケーキ。果物がぎっしり詰まったバターケーキを焼いてアプリコット・ジャムを塗り、パート・ダマンドを被せ、グラス・ロワイヤルで仕上げる。1年以上経過しても風味を保つ。

 1882年(明治15年)ごろになるとは大々的に、西洋菓子を売り出し、1886年(明治19年)にはシュークリームもアイスクリームも製造していたといいます。西洋菓子に力を入れるため、米津松造氏は横浜85番館でコックをしていた谷戸俊二郎という人を月給80円で雇いました。当時10円でお米が165kg買えました。英国の議員の来日に備えて20円で菓子製造のみの料理人が雇われたという新聞記事などから考えても谷戸俊二郎氏の待遇が破格のものだったことが判ります。
 池田文痴菴氏の[註]によれば谷戸俊二郎氏はフランス人のシャリー・ヘイ(※)の門人で後に東京芝の愛宕山下で壺屋を興した人物、あるいはその縁の人だそうです。その頃西洋菓子を会得した人は「通例として馬丁をしながらその傍ら」覚えていったといいます。谷戸俊二郎氏もやはりそうして西洋菓子を勉強した人でした。

※シャリー・ヘイと表記されている人物は、村上開新堂の村上光保氏が横浜で師事したサミュエル・ペールその人ではないかとの推測も成り立つ。1958年(昭和33年)に開かれた洋菓子界に活躍する先輩の方々の座談会で高須八蔵氏も3代目の村上二郎氏に対し「お話し(村上光保氏が師事した)外人はシャリー・ヘーゲル(ヘーゲルと呼んでいるが)じゃないですか?」と質問している。村上氏は「はっきりした記録はないが、そうかもしれない」と可能性を否定していない。「横浜84番館でホテルを、85番館で洋菓子を経営し、1883年(明治16年)帰国した」とされるサミュエル・ペールとは地番、年代とも合致している。