第10回 メリケン粉

横濱本街59番、レンクロフォード社の新聞広告。蒸餅及ヒ乾餅ヲ製スル器械希望者を求めている[1873(明治6)年3月11日発行(第257号)日新真事誌]
 1870年ころ、横浜の外国人居留地山下町には"異人さん経営のパン屋"が4軒ありました。
 米人クラーク、英国人レンクロフォード、伊太利人デンティス、仏人のパルメスの4人で、クラーク経営のヨコハマ・ベーカリーが大規模なものでした。
 パンの販売先は居留地の外国人や入港する軍艦や商船でした。1877(明治10)年ころまで"横浜パン"といえばフランス式でしたが、その後イギリス式のパンに流れが移りました。
 パン食とパンの製造は東京にも広がりました。外国人居留地のあった築地の鉄砲洲(現在の中央区明石町)の蔦本パン店、築地・精養軒ホテル(1872(明治5)年創業)のパン部、日陰町の木村屋、1789(寛政元)年創業の大住・風月堂、下谷の文明軒などが互いに品質を競い合っていました。
 原料の小麦粉は、日本製は褐色で粉粒が粗く、パンを作るのには向きませんでした。そこで機械で生産された小麦粉を米国から輸入しました。輸入された小麦粉は米国産なので米利堅(メリケン)粉と呼ばれるようになりました。
 パン食は都会でもごく一部の人のものでしたので、1882(明治15)年のメリケン粉の輸入量はわずかでした。これに対し国内の水車製粉の供給量はこの140倍もありました。
 明治政府は、水車による製粉から近代的な生産へ転換し、パン食を普及させようとしました。1873(明治6)年にはフランスから石臼製粉機2台を輸入し、浅草蔵前の米倉内に、最初の機械製粉工場を創立しました。しかし、経営が軌道にのるまでには幾多の曲折があったといいます。日本製粉株式会社の歴史はこの浅草蔵前の工場に端を発しています。

参考文献:「日本製粉社史 近代製粉120年の軌跡」日本製粉株式会社